鞆の浦を世界遺産に!
いにしえの港「鞆の浦」
福山市には国際的な観光地である「鞆の浦」があります。鞆の浦は古代から栄えた潮待ちの港です。潮待ちとは潮流を利用して航行する船が潮流の向きが変わるのを待つことです。運河のように発達した瀬戸内海にはこのような港がたくさんできました。その中でも鞆の浦は当時の港湾施設を全て残している唯一の港なのです。
乱開発の波にさらされて・・・・・
ところが、このいにしえの港「鞆の浦」が乱開発の危機にさらされています。計画では鞆の浦の小さな入り江を埋め立てて橋をかけるそうです。この計画が実施されれば鞆の浦の景観は完全に破壊され、国際的にも評価の高い遺産と、福山市にとっても重要な観光資源が失われることになります。
この計画はすでに市当局が乱開発のための免許申請をしようとする段階まできています。(2001年度5月)
市民に愛されている鞆の浦。
鞆の浦の街で生まれ育った人はみんな鞆の浦を誇りに想っています。それは鞆の浦が歩んだ歴史の足跡と、当時と変わらぬ最高の景観が今に伝わっていることに裏打ちされています。そして、この鞆の浦は国際的に評価されているがゆえに、福山市民の宝として愛されているのです。
鞆の浦の歴史は日本の歴史
潮待の港として発達した鞆の浦には歴史の中の大きな出来事に関わる場面がたくさんあります。
遣隋使
遣唐使 遣渤海使 空海 源平の戦い 足利尊氏
足利義昭 村上水軍
平賀源内 朝鮮通信使 北前船 坂本竜馬
数えれば限りなくたくさんの歴史上の有名人が鞆の浦に立ち寄り、足跡を残しています。
潮待の港
潮待ちは最低でも数時間かかりますが、、1泊することが多く、長い時には2泊した記録があります。
江戸時代には幕府とって唯一の国賓である「朝鮮通信使」が12回来日していますが、その内11回は鞆の浦に立ち寄っています。
潮待ちの港として発達した鞆の浦は、産業や遊郭などの歓楽街が発達しました。今でもその町並みがたくさん残っています。さらに、港の前方に広がる景観は、あまりにもバランスのとれた美しさで、特に通信使の大使専用宿泊施設として建設された「対潮楼」からの景色は「日東第一景勝」とうたわれました。
歴史の重要人物の中にも、坂本竜馬、平賀源内、足利義昭、空海など、たくさんの人物が鞆の浦に足跡を残しています。
港湾施設の保存状態は極めて良好で、雁木は、寛政年間に建造されたものなどが今でも現役で利用されています。「雁木」とは、潮の干満に影響されず船が接岸できるように考えられた、階段状の岸壁のことです。雁木の他にも、知る貴重な資料灯篭、波止、立て場などが現存しており、当時をとなっています。
この鞆の浦にも、開発の波が押し寄せています。鞆港の半分を埋め立て、工業団地と駐車場を確保する計画が進んでいます。確かに古い町並は、道路がせまく、駐車場も少ないのですが、果たして、この重要な歴史の遺産を破壊する価値があるかどうか疑問です。むしろ、歴史の遺産こそが、修学旅行を始めとした観光客を呼んでいるのです。 鞆港には、琉球王国使節、遣渤海使の答礼使、朝鮮通信使など、平和外交を求めた人々が寄せて立た、東アジア規模の国際港湾都市遺跡です。地元では、「鞆港を世界遺産」に登録してもらうよう、国際連合呼びかける運動も起こっています。 ぜひ、鞆の浦を訪れてみてください。きっとすてきな歴史と人情にであにえることでしょう。