諏訪神社  広石地区の昔話 弐
    

 今から、もう足かけ四百年も昔の事じゃよ、日本というお国は、
 真っ二つに分かれて、大きな戦をしておったんじゃ。(関ヶ原の戦い)

 その頃、宮本三郎春孝というお侍様が、その戦さに出る為、諏訪の国(長野県)の
 諏訪神社に参って、戦勝の祈願の御守りを頂いて、それをしっかと懐へ入れると
 戦への旅に出られたそうじゃ。

 しかしのう、味方は次々と討ち死にされ、周りは敵ばかり、さしもの春孝殿も、
 とうとう戦いに破れ、次々と敵に追われる様になってしまわれた。

 何日も何日も、食べる物も無く、道に出れば、落ち武者狩りの手の者に
 矢を射かけられ、それでも、やっとぅの事で、逃げる事が出来た春孝殿は、
 この広石ちゅう所へ、傷だらけになって、落ち延びて来られたんじゃ。

 息も絶え絶えに、身体に貫かれた矢を引き抜き、深い痛手を負いながら、
 何とかこの地で、手当をすることが出来たんじゃ。

 そうして、追っ手もここまでは来ぬ様子に、ようやっと安心して
 この広石というところへ住みつかれたんじゃよ。

 春孝殿は、諏訪神社≠フ御守りを握りしめ、敵の中、今まで命を長らえる
 事が出来たのも、追っ手から無事に逃げおおせる事が出来たのも、
 みなみな、この諏訪様のお陰に違いない、そう思われて、
 お守りを「神実様」にして、お宮を建立され、お祀りされたそうじゃ。
 そうして諏訪神社と名づけられた。

 と、不思議なことに、その宮へ五羽のカラスが、神のお使いとして
 住みつく様になったんじゃ。

 百姓の様に、田や畑を耕して暮らす事になった、春孝殿ではあったがの、
 そのカラスは、まるで、母の様に、かばうようにして、
 様々な悪者から守ってくれたのよ。

 それから何十年も経った、ある時の事じゃった。

 広石の村にそりゃあ悪い病が流行ってしもうた。
 村の衆は、みな、高い熱が何日も続いちゃぁ、おなかがよじれる程痛うなって
 見る間に、次々と死んでしもうのよ。

 田舎の外れでは、お医者さまなど居りはせんし、これと言う薬も無いんじゃ。
 村の衆は為す術も無く、ただ、ただ、苦しい身体をさすってやったり、
 水を飲ませたりするしか、何も出来んでの、そりゃ苦しかったんじゃよ。

 ほとほと困り果てた村の衆は、これはもう神さまに、おすがりするしか
 無いのぅ、言うて、皆で諏訪神社に、お参りを始めたんじゃ。

 毎日、毎日、一生懸命に、皆でお参りをしたんじゃよ、朝も昼も晩も夜も
 おとなも、こどもも、一生懸命になって
 「どうぞ、この広石から悪い病を追い払ろうてください」と、祈り続けたんじゃ。

 すると、どうじゃろう、あの五羽のカラスが宮の上から、それは切ない
 涙の出るような、悲しげな声を上げて泣くんじゃよ。

 そして、そのまま、日に日に痩せていき、次第に羽根の艶も無くなり
 見る間にやつれていったんじゃよ。しまいには、もう、飛ぶ力も
 無くなって、宮の屋根にやっとうの事でつかまって、ぐったりしておった。

 ところがの、そうこうする内に、その反対に、村の人の病は、
 どんどん良うなって、見る間に元気になったんじゃよ。
 そうしてとうとう流行病(はやりやまい)から助かったんじゃ。

 これはきっと諏訪の神様と、そのお使いのカラスのお陰に違いない、
 言うての、村の衆は、この苦しみを助けて下さった、諏訪の神様に
 お礼をする事にしたんじゃよ。

 病は、辛い、しんどい事じゃったが、お陰で皆が元気になった、
 その姿を見せようと、村の衆は大よろこびで、沢山の花やら、
 お供え物を持って、諏訪神社へと集まったんじゃ。

 そして宮の前で歌ったり踊ったり、神さまを慰めようと一生懸命につとめたんじゃ。
 そうするとの、不思議な事に、あの五羽のカラスも、だんだんと元気を取り戻し
 元気そうに「カーカー」と、声高らかに鳴いたと思うと、そのまま、羽を広げると
 さあ〜〜と舞い上がると、天高く飛びはじめたんじゃ。

 神様の使いのカラスにも元気になって欲しい、言う、村の衆の
 心からの願いが通じたんじゃろうの。
 カラスは何時までも、何時までも宮の周りを跳び続けて居ったんじゃよ。 

 ※今も毎年四月二十九日に花まつりとして花をお供えし、餅まきをしています