西周を過ぎ東周の頃に諸子百家が興る
春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝が焚書抗儒を行う
漢の高祖劉邦の長安焼き討ちで一時は儒教などが消えかかる
前漢の頃に五行博士を置き儒教を官学にする
後漢の時代には太平道や五斗米道が流行り黄巾の乱が勃発、
三国時代には老子注が出来、この頃に卑弥呼が使者を送る
南北朝の頃にインドの僧、鳩磨羅什が長安に行く
道教を国教と定める
この頃日本に百済系の仏教が流入する
唐の時代には道教を中心として諸宗教を禁止
五代十国を経て北宋南宋の頃に朱子学が出来る
と、上記を見る限り仏教が隆盛を極めた、という内容を見ることは出来無い。しかし、だからと言って仏教が存在しないと
言う訳では無い。これはどういう事かと言うと、道教や儒教の中のエッセンスの一つに仏教が流れ込み融合してしまった結
果と言える。また表だっては道教儒教等を中心としながらも、皇帝に依っては仏教を擁護した時期も在ったのだ。そもそも
中国における宗教の基本は、精神文化のそれでは無く、道教等を元に時の皇帝が官民掌握の為の管理体系として存在さ
せた所以と言えるからだ。
諸子百家というのが管理体制の基底にある。儒家は「仁」と「礼」で人の道徳を説き、道家は(老荘の発端)原始自然の社
会を理想とし、陰陽家は「占星術」を発展させ、法家は「刑罰」と「法律」(韓非子等)で帝王の権力を確立させ、名家は
「名」「実」で言語表現の確立を果たし、墨家は「博愛」と「非戦」を唱えた技術者集団、とする内容である。
これらは時の権力者の為に生まれたと言っても過言では無い、国家権力の維持の為のエキスパート集団だったと言える。そ
の中の道家、つまり、老子と荘子の説をテキスト化したものが老荘思想として現在日本では一番広く分布している、と言う
のは周知の事だろう。しかし時の権力者はむしろ儒家を珍重した。
いわゆる論語の概念が、支配権力体系に適した社会秩序思想と良くマッチしたからで、世に言う仁義礼智信が主体となる中
「礼」を重んじた。つまり、世上では皇帝おかかえの論語と対するアンチテーゼの個人思想たる老荘思想が、車の両輪の様
に互いに発展する事になった、というのが大まかな中国の歴史の中心だろう。しかし、だからと言って水と油の様にまるで
反り合うというのでは無く、むしろ時に混じり合い、時に離れ合う存在の様にして発展を遂げる。
しかし、中国はどの様にして仏教を道教に取り込んだのか…。もそそも仏教とは精神的なそれとは別に、インドで生まれカ
ースト制等を含む中央集権制度を意味する政治国家を確立する事が出来る思想体系であると言える。
故にそれは仏教教典を翻訳するときに始まる。梵語で書かれた文物を自国語に翻訳する為にはどの言葉を充てれば原文
の意味を一番正しく伝えるか、という問題が必然的に発生する。対して一番明確に回答したのが道教であり老荘思想だと
言われる。翻訳の中心地は現在の西安と呼ばれる西域との主要な接点長安の都だった。
内容を簡単に言えば道教で言うところの無は混沌であり混沌が天地や陰陽を形作る、というもので、実体は観念的で抽象
的だが、そうした無の概念が抽象的に類似した空に充てられた。そして無は空と合体融合した。
中でも特筆すべきは禅譲という言葉だろう。禅と言えば仏教語と誰もが思うだろうが、実の所が禅譲とは帝位を譲るという
事で、元は泰山で祭りを行い、天下に皇帝の権力を示すための一つの道教的儀式の禅を指す意味の言葉だった。それが
仏教の禅と融合し、結果二つの意味を持つようになった。これらから即ち、国家管理が仏教道教両思想に基づくものである
ことが明白になるだろう。
そしていわゆる老子化胡説が生まれた。老子化胡説とは、史記の老子伝最後の記述に「老子は西へと去る」とある事に目を
付け、老子が西に向いて去ったのならば西から来た仏教は老子の感化の上に出来上がったものである、という主張で、結果
的に老子が釈迦の先生扱いとなる。こじつけも甚だしいが、それが中国的安易発想の上に認められることになる。実は中国
の姿勢はそうした大陸的大まか安易発想が意外に多い、国民的神経は余り細かくないのだろう。
しかしそれを単純に批判できるものでは無い。それは老荘思想が最初から一つの思想体系を確立していた訳ではなく、この
仏教との融合が有って初めて、そのノウハウで体系確立を果したからだ。
結果として思想体系は「儒教」「仏教」「道教」の三つ巴となるが、そのどれにも老荘思想は入り込み、底辺で生き続ける事に
なる。しかし、中でも仏教の禅宗が次第に勢力を伸ばし始める。上記の通り、老荘思想は仏教と融合したかに見えたが、鳩
羅什らの教典の正しい解釈に依って再翻訳され老荘思想を内包しながらも老子化胡説を捨て新しい仏教に進むことになっ
た。
嵩山少林寺は仏教の寺だが、それが武術で有名になったのは周知の事で、修行にもまた陰陽思想老荘思想が多大な影響
を与えているのも良く知られている。(今現在はどちらかと言えばショー化している向きもある)
所で、仏教が日本に入った時、この国ではどういった対応をしたろうか。第5項で書いたような内容になるが、では実際ど
う使われるに至るのか。
中国で仏教が「管理体制の一つの方法」として使用されたのは既に述べた。では日本でも似たような事は起こったろうか。
確かに天皇は仏教を国教に指定して浸透を図る。しかしまた全てを見習った訳でも無い。特に中国での科挙等は日本に於
いて行われた形跡が無い。実際この事から現在でも中央権力に対して或いは権力に対してコネのまかり通る世の中なの
である。しかし、当時から問題は色々在った筈で、特に問題となるのは絶対的権力の位置付けだった。絶対的権力とは、
天皇がそれまでに使ってきた手法(神道に準じた儀礼支配)と限りなく近い位置にある支配方法論であった。
しかし、一つには百済が滅亡した事と大きく関わっていることは否めないだろう。百済が滅ぶ前後、戦乱を逃れるように大
量の難民が、しかも百済が仏教を擁護してきた事で仏教徒だったと思われる人々が、この前後仏教情報と共に日本へと
流入してしまった。大阪のある地方にはそうした地名まで残り、一つの民族集団が在った事をも偲ばせる。そうした移民に
依る日本を始めとする近隣諸国への仏教の影響は大であったろう事は想像に難くない。
さて、立法の方法としては中国を見習いながら律(刑法)令(行政)制を登用した。律令制度の発足は684年八色姓(や
くさのかばね)を発端に進められる。672年壬申の乱で勝利を得た大海人皇子こと天武天皇が中心人物である。まさに上
記の法家のエッセンスが利用されている。そしてまた老荘思想も含まれる。そして老荘思想がその姿を如実に現しているの
が天皇の系列の冒頭部分であろう。天は分岐しながら世界が出来て、神がこの世に降りてきた、と言うくだりだが、その結
果、現代でさえ尾を引く天皇万世血統一族の概念が定着するに至る。血統の正当性は何を捨てて何を得たのか。
いわゆる神々の世界はこの世とは一線を画しているのは一般的認識の上からも常識だろう。しかし、天皇が神の直系の子
孫であり、それは神聖なもので、誰にも覆すことの出来ない絶対性を持っていたら、これは一つのステータスシンボル以上
の効果を表すだろう。この点に目を付け、そしてそのシンボルを上手く取り入れ、権力の正当性を確立した集大成とも言え
るのが記・紀なのだ。そして基本には、まさに隣国であり大国である中国の基本姿勢というものの細密な情報を希求した往
時の天皇一族の姿勢があった。神仏習合の体制はこの時既に始まりつつあったと言えるだろう。ここに中国的安易発想を
見習う姿勢もまた見える様だ。
天皇が一族一血統では無いことは既に幾らかの論証からも在る程度は知られている。特に継体武烈帝間がそうした事を物
語る。戦乱に依って血族以外が天皇につく事はあながち珍しい事では無い。しかし、当事者(天皇)にとっては大問題だ。い
つ転覆するかもしれない船に乗るのはたまったものではない。が、仮に不沈船であればどうか。在る意味でそれは安泰の一
言に尽きるだろう。これを画策したのが他でも無い「仏教擁護派」に依る仏教の浸透を理由に万世一族血統正当性を作り上
げようとした一派、つまり物部を廃し天皇の側近にまでなった蘇我一族を始めとする仏教派の理念なのだ。(結果的には挫
折をみるが)始まりは蘇我氏一人が仏像に傾倒した、それは多くの史書が物語るが、しかし何処にも必然性が見えてこない。
蘇我氏、その出身は謎に包まれている。出自もあやふやで何処に居た人々かも良くは解っていない。後世作られたとされる
出自には、武内宿禰の子石川宿禰が始祖となっているが、しかし系列の名前には「韓子」「高麗」等が見える。その後、稲
目、馬子、蝦夷と続く。が、彼ら一党が仮に仏教が政治的に大きく影響を与える事を予め知っていたなら、恐らく先祖は中
国の南部出身と考える事も可能だろう。血縁一統を頑なに守る精神は実は中国での概念が大きく作用しており、現在ですら
中国の国家管理が血縁に守られている国と言えるからだ。ケ小平がその血縁で最高位まで達したのは周知の事だろう。これ
は折々に皇帝が戦乱で国の民を犠牲にしながら現在を迎え、その不安定性故に国民は国家の体制への依存を捨て血縁で
種を温存しようとした中国の長年の国民性に基調があるのだ。
さらに推論するなら蘇我氏は継体武烈帝頃から葛城系の祖に食い込み、血縁を交え、天皇系列に紛れ込んだ可能性がある。
確固たる根拠とは言えないが継体天皇の父の彦主人王の墓と伝える滋賀県の稲荷山古墳から朝鮮文化の影響が強い副葬
品が多数出土しているからだが。しかし、継体天皇は、その薄い血縁から大和に入る事が出来なかった。大和の地方豪族達
の総スカンを食ってしまったからだ。雄略天皇以来血の抗争が続き、内戦で都は荒れ果て、最後には子の無いまま崩御した
後に、そうした事とは縁薄い天皇を求めた故の結果だった筈だが、事はそう上手くはいかなかったのだろう。そうした地盤が
故に神道では無く他国の宗教、漢神(あやのかみ)客人神(まろうどがみ)の登場を待つという気運を既にして内包していたの
かも知れない。
継体天皇はそうした意味でも歴代天皇の中で一つのキーポイントに挙げることが出来るだろう。仮にこの天皇が先帝と血縁
が無い、と明示されれば、或いは皇后である手白香皇女が雄略天皇の直系では無かったら、万世一系はあり得ない事にな
る。この空白期間が歴代の中でも一番やっかいで一番証左の可能性の低い時期と認識すべきだろう。第一その名前である
継体(体=歴代 継=継ぐ)からしてかなり胡散臭いと言わねばならない。
さて中国の南部は言うまでも無く三国時代から常に疎まれた人々が住むところだった。秦の始皇帝が強大な力で近隣諸国を
統一した後も、中国で一番やっかいな問題だったのが北方の突蕨、鮮卑、南方の倭寇等の海上を拠点とした水棲民族や国家
争乱で追われた残党達だった。残党の中にも旧勢力の頭領や知識人達も多く存在した。またそうした知識人達が折々に皇帝
の側近として仕える事もあった。が、中国が争乱で明け暮れる中に活路を見出そうと海外に逃れる人も多かった。特に随や
唐が統一される前後、そうした人々は折に触れ朝鮮や日本、南方のアジアへと逃れた。いわゆるボートピープルの趨りだっ
た。中国南部の河伯が河童であって河川や海岸に生活拠点を持つ民族だ、とは既に書いたが、そうした人々は一つの信仰を
持っていた。道教の神である媽祖である天上聖母だが、航海神であり娘媽ともいわれる。現在の台湾でも盛んに信仰されて
おり、沖縄にも廟がある。そうした娘媽を信仰する人々は日本でも同じ様に信仰をするのは自然な行為であろう。よって、
仏教を持ち込み、仏教を政治に利用しようとした人々はそうした系統の人々とは明らかに別だと言える。
ならば戦乱に依って生き延びた元の統治者関連の誰かが蘇我氏と縁が深いと言えるのか。が、一方で蘇我というのもソガ、
シガ等の同意の読みが在り、特に万葉集に詠われる様に河に縁のある民族らしいという可能性も否定できない。その上シガ
という言葉はシナ(志那)の言い換えとも言える事からしてみれば蘇我という名もまた「吾甦り」との意味を持つ水棲民の
一族と深い縁があると言える。
しかし、こうした記述には常に漂白民や渡来民は「ヨソモノ」であり在来民達「ウチワ」の目でのみ判断して「ヨソモノ」
に対する謂われのない偏った目で理解しようとしがちである。しかしそうした目線こそが天皇一派の得意とした蝦夷に対す
る考え方と同じ「我中心」的な思考形態であって、この目線では隠れてしまった事や見えない事を見る作業はおろか本当の
事など見え様筈も無い。まさにこうした現実が現在まかり通っている事こそが、天皇の管理体制の上に形成された頑強な思
考形態の一発露であると認識せねばならない。
これらから仏教が元から精神文化のみを伝えたならば、日本に渡来した後、果たして今ほどは発展しなかったろう、という
事が理解できるだろう。日本に入った仏教はそうして幾多の変遷を潜り民衆を巻き込みながらも草の根を張るように生きて
きたのだ。
仏教帰依とは良く言った言葉だろうと言える。古くから神とは即ち祟りなし恩恵を与え、陰と陽を併せ持ったアミニズムの
集大成と言える様相を呈していた。しかし、それは一部の豪族によって牛耳られ他の追随を許さない一派占有の手段と化し
ていたのだ。天皇個人の意見でさえ建議での否定を受ければ却下されたのだから。そうした意味でも蘇我氏が仏教を押し進
めたのには自ずと答えが見える様だ。
往時仏教の本質は神と同じ「祟る」か「恩恵」かの二者択一が構造の基幹を成していた。故に世情に関わる問題の殆どの理
由付けの為に宗教はかり出されてきた。神道であれ仏教であれ、災いを成せば鎮める手法を講じ恩恵を預かれば祭って喜ん
だ。ただ、一点違うとすれば、仏教は「因果応報」という概念が付随し造形化した姿を眼前で崇拝出来た事だろう。応報と
は何も悪いことが身に降りかかる事のみを指すのでは無く、良きに付け悪しきに付け、因果を認識させられた事は、あるい
は社会秩序の安定上、非常に有効な手段だったろう。それはまさに超越的な力で管理される事を強いられるからに違いない。
しかし、その押し進めた仏教の故に地に落ちた時、同時に蘇我氏は鬼に化身され四天王の足下に額ずく存在に貶められてし
まった。自ら招いたとしか言いようが無いのか、仏教は都合の良い事に?人間では見えない姿を系統立てて見せてしまった。
そうして人依りも劣る者は人の死後「鬼」となって悪の権化と表現されてしまう。天上界、人間界、修羅、畜生、餓鬼に地
獄という六道の筋立ては、すっかり人の目線をシンボリックな現実の戒壇へと追い立てる事になる。
しかし、蘇我氏は一方の朝鮮半島に於いて日本の根幹を成す神道を理解する様に渡来人に働きかけている。そうしてみると
蘇我氏とは仏教一辺倒では無い事が理解できる。あくまでも自分の社会的立場、或いは政治的力量の放出点としての方法
論的仏教であったのだろう。しかしそれにしてもこの点はもっと論じられるべきだ。余談ではあろうが一辺倒に蘇我=仏教オ
ンリーでは余りにも狭窄的と言わざるをえない。
仏教の現世利益という観点から言えば、神道のそれよりも遙かに現実味を帯びて語られたのが本質であろう。が、その故に
仏教の浸透を急激に加速させもしたのだ。神とはそもそも見えない存在であり、常在せず折り折りに依代としての鏡や石に
憑く事で具現化し現世に影響を与えてきた存在であった。故に不明瞭であり諸々の現象の中にのみその姿を見出して来たの
だ。時節、由来の日時、そうした特殊な縁日に何かの「依代」に掛かり現実になる。言わしめれば客神の扱いがカミの有り
体だった。それが一挙に現実の仏像となって現れ常駐した時の諸々の人の驚嘆は大きかった筈だ。かの中国で仏教が道教と
融合した様に、こうして日本では神とホトケは習合を始める。が習合は何も日本独自の形態では無い、輸入時に既にして仏
教はオリジナルを逸れ道教や老荘との習合した後の姿だったのだ。故に神道との更なる融合は生き延びる一つの道だったろ
うし始めは宮中より、後には大衆理解のための一つの用法だったと理解できる。こうして緩やかに貴族から民衆へと静かに
流れ始める。
仏教画の中でも浄土を表現したものは多い。そうした絵には山々が描かれ、その山々を越えてホトケは現世に恵みをもたら
す。無論それは中国で道教と習合している為に神仙思想が反映した蓬莱山である。そうした事から神道が山を御神体として
崇拝した様に初期仏教は山岳神道と合体して山岳仏教を生み出した。役の行者がその代表的な存在であろう。こうした山岳
仏教は実の所朝廷のそれよりも古く単独で流入し、そして分布した形跡が在る様だ。道教的内容を多く含み、呪術を行使し、
山野を巡り自らのホトケの体現を求めた。無論それは輪廻の輪を抜け出し浄土へと続く道筋であった。
神功皇后の木造が現存しているが、この木造の姿は五劫思惟像と良く似通っている。作成年代が明確では無い理由で何と
も言い難いが、仮にその大きな黒髪が「思惟」を表すなら、同モチーフで神功皇后が造られたとするなら、蘇我氏の以前から
仏教は存在した証になるだろう。故に敏達天皇が既に自ら仏教に興味を持っていた、という点も同意できるだろう。が、こ
の時点での仏教とは前述の通り管理社会に於ける一つの先進技術と見なすべきであろう。
翻って中国では仏教ならず様々に宗教が入り乱れる時期が在る。中でもネストリウス派キリスト教を大泰景教と呼び唐の太
宗が宰相をして迎えさせている様に手厚く擁護している。長安では仏教寺院を始めゾロアスター教、キリスト教マニ教など
がそれぞれ施設を建てており東西文化の奔流を見せつける。社会が一応安定をし商業の発展がそれを支える。言い換えれ
ば日本との国交を行い始めた頃の中国は最も良い社会形態を持っていたと言えるのかも知れない。
キリスト教を大泰景教とするのは発祥をローマ帝国とし呼び名だった大泰国に習ったからだが深い意味が在る様だ。僻卦で
言う、元々歴の中の一月を泰と呼び慣わし、泰という言葉には正月という事始まりの意味を持っていた。つまり陰陽がバラ
ンス良く和合した形だ。故に発祥地という概念がこの字を充てさせた、と言えるだろう。もともと古代ローマ帝国は専制君
主であったが、その中でも政治制度は単なる君主制だけでは無い要素で諸々の世界に強く影響を与えた事は周知の事で
あり、その影響が中国に及んだという事実は無いとは言えない。始皇帝の秦の国は古代ローマの影響を汲み、そうして政治
制度を手本としたという事もあながち不可能では無い。大秦の国、それがキリスト教の発祥地としての意味を持つ事は重要
な鍵となるだろう。
そもそも秦の始皇帝は何故焚書抗儒をする必要が在ったのか?。その点から見れば始皇帝本人には儒教も老荘も廃棄す
るだけの重要なコンセプトを持っていたと見るのが自然であろう。それが何であったか、唯一泰山への幾度も繰り返された
登山がそれを遺していると言えるだろう。始皇帝亡き後も秦の国は小さい属国となりながらも細々と存在した、が、戦乱の
故に当主同士は血縁的に繋がりが無い。にも関わらず何故秦の字を宛てたのか?。争乱に依って逃れた末裔は何処に行っ
たのか?。ここには多くの示唆がある。そこに女帝「持統」の姿が二重写しに見えてくるではないか?。
こうした事を丹念にみていくと古代朝鮮にと行き着くことが出来る。古代朝鮮三国時代を迎えて互いに牽制しあう国に挟ま
れ一つの独立国が出来上がる。しかしそれも長くは続かない。ミマナという国がそうして消えてしまったが、その国の人々
は強く日本と通じそして仲間意識を強く持っていた。後に白村江の戦いでの惨敗が遺したモノは余りにも多く、余りにも深
かった。
同じ様な観点で見れば継体天皇の後ろ盾には確かに朝鮮半島が在ったと言えるだろうし、また同じように神功皇后や武内
宿禰の後ろに朝鮮が仏教が見え隠れするのも必然と言わねばならない。日本という限られた地域だけでは理解できない
部分が在る事を認識しなければならないだろう。しかしだからと言ってその全部をただ魏志伝のみに頼るのは問題も多い。
ヒミコ一つとっても卑という卑しめの意を含めた名称で愚弄する中国が世界の中心という意識の上で書かれた事を前提に
しなければ全貌を見る事など出来ない。
さて、ならば神道はすっかり消え失せてしまったのか、否、そうではないだろう。カミはホトケの基にすげ替えられながら
も連綿と息づいていた。人々はハレとケの世界を作り上げながらカミを自らの懐に抱いていた。そうした一つの現れが火の
祀りであろうし水の祀りだろう。中でも火の祭りは源泉をアミニズムに見ることが出来る。火の草創が摩擦での発火であっ
た事は古く石器の頃から存在した。その火の驚異に恐れシンボル化して遺したのが鬼の角であった。
鬼について一つには角が重要な意味を持つ。角とはまさに木と木台を摩擦熱で発火させる為の摩擦棒がシンボル化されたも
のであって、火そのものを表し火という概念が後に金属精錬従事者へとすり替わっていった。古代の火の管理者が即ち邑の
首長なのであり火のカミの代人だったのだから。故に鬼の角には螺旋構造が存在し、それはとりもなおさず火をおこす時に
弓を張り弓の中途に棒を巻き付け上下させて摩擦させたその巻き弦がすり替わったものだと気づく。上手く使えば生活力を
強大に上昇させる火も、一歩間違えば災厄となる両刃の剣と同じく、その火の力の偉大さ故に鬼は火のそばで常に火と隣り
合わせに強い影響力をもって生きた人々だった。鬼火とは、そうした人々の声にならない声無き声を現世に映し出す一瞬の
炎ホムラなのかも知れない。
能 (転載)
−−−融−−−
皇子として生まれながら源姓を賜って臣籍に下った左大臣、源 融( ミナモトノトオル
)は、六条河原院という広大な邸に住ん
だので河原左大臣とも呼ばれました。皇太子、皇子、大臣、中宮、女御といった高い身分の人の中でも特別な人にしか許さ
れなかった、人の手で引く屋形車(輦車 テグルマ)で宮中に入る資格を与えられましたが、望みどおりに天皇の位につく機会
は、ついに訪れませんでした。七十三歳で没するまでの、長い不遇不満のはけ口が、豊かな財力を浪費して遊び尽くすこと
だったようです。六条河原院に陸奥塩釜の景色そっくり似せて作り、毎日千人を使って難波津、敷津、高津で海水を汲ませ、
千人にそれを運ばせ、千人で塩を焼かせたと伝えられます。「融」は、そうしたどこか荒波だつ貴公子の姿を描きます。荒
れ果てた六条河原院跡を訪れた旅の僧が、汐汲みの老人に出会います。都のまん中でなぜといぶかる僧に、ここは融が塩
を焼かせた跡ではないかと語った老人は、折から照らす秋の名月に浮かぶあたりの名所を教えるうち、昔が恋しいとうずくま
り激しく泣きます。老人、実は融の霊です。やがて融は優美な壮年の姿で現れ、曲水の宴を催して夜通し歓楽に時を過ごし
た華やかな昔を回想し、夜の明け方とともに傾いた月のかなた、西の空へ消えて行きます。
−能 狂言 道しるべ 児玉 信− より転載
−−−−−−−−
源 融は嵯峨天皇の8人目の4番目の皇子として生まれた。仁明天皇とは兄弟であり生涯天皇の位を夢見そして最後までな
れぬまま不遇に過ごした。しかし同じように不遇な生涯を過ごしながらも棚ぼたで天皇になった光孝天皇やその皇子の宇多
天皇と縁が深い。阿衡事件で困惑しながらも、融は生涯を二心なく誠実に生きた。しかしその不遇さが彼をして能の世界に
永遠に活かす事になろうとは当の本人には預かり知らぬ事ではあろう。尤も、ある日突然目の前の似た者同士だった縁者が
天皇になる、片や自らは延々と同じ生活を続けねばならぬ。その悔しさ、憤り、それが幽玄の世界、能という世界であれ、
心底泣き嗚咽に咽ぶ事で幾ばくかでも昇華されたのだろうか…。
−−−雷電−−−
学徳人にすぐれ、政治の中核にあった菅原道真が、ライバルのために無実の罪を着せられて九州太宰府へ左遷されたとい
う話は有名です。道真は無念の思いを抱いて、まもなく太宰府で没しますが、そののち都には次つぎに天災が襲いかかり、
ライバルも雷に打たれて死んだと言います。人びとは、天災を道真の祟りと信じ、北野天満宮や太宰府天満宮を創って道真
を天神として祀り、荒ぶる魂を慰めようとしました。「雷電」は、北野天満宮の由来などに拠っています。
延暦寺の座主である法性坊の僧正が天下鎮護の護摩をたく夜更け、かつて僧正を学問の師と仰いだ道真の霊が訪れて、
二人は打ちとけた語らいをします。だが道真が、これから雷となって宮中に暴れ入り、自分を陥れた連中を蹴殺す、調伏のた
め僧正にお召しがあるだろうが断って欲しい、と頼むのを、僧正が拒んで和やかさは一変。怒りをあらわにした道真は、本
尊に手向けてある石榴を噛み砕いて妻戸に吐きかけ、火焔となる間に姿を消します。やがて、二人は宮中で対決しますが、
不思議に師の僧正が祈る場所を避けて鳴りとどろいていた道真の怨霊は、帝から天神の位を賜って恨みを解き、虚空に上り
ます。柔和な貴人姿の道真が、たちまち鬼神になる面白さ。師の法力との丁々発止も、見応えがあります。
−能 狂言 道しるべ 児玉 信− より転載
−−−−−−−−
道真はご存じの通り梅の紋でも良く知られている。不思議なことに、行った事もない東北地方にも梅紋の家を見かけ、尋ね
れば道真の末裔と答が帰る。それは道真の死後、霊となって妻の元に現れた道真がしとねを共にし、朝には一枝の梅が残さ
れており、やがて一子をもうけたという伝説が基調にあり、その子等が子孫と言われる。道真の非業の死が数々の伝説を生
み、そして語り継がれてきた。しかし、道真は当時、基をただせばハジベの出身であり学者肌とは言え卑賤な身分であったと
勝手に決めつけられ、出世は無論、帝の側に使えるなどは許し難いとの気風が在った様で、それ故宇多天皇に仕え蔵人頭
から右大 臣に抜擢された事は、藤原氏にとっても目の上のたんこぶであったろう事は容易に伺える。
そもそも宇多天皇が時代、帝は時平よりも道真を重用していた。しかも道真をして時平よりも上に置く程であった事は、藤原
氏に とって屈辱に値する行為であったろう。故に、醍醐天皇を排除する計画を宇多法皇としている、と計られ見なされ太宰
府に 追放された時、宇多法皇の胸中には一体どの様な疑問が沸き起こったであろう。が、それがまったく陰謀に無縁であっ
たと、果たして言いきれるだろうか。
こち吹かば にほいおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ
流れゆく われはみくづとなりぬとも 君しがらみとなりてとどめよ
宇多法皇は急いで内裏に行き醍醐天皇に弁明を計ろうとしたが門は堅く閉じて入れず結局諦めたと言う。宇多天皇はしかし
文化人として幅広い知識を持ち、四方拝という年中行事を始めたのもこの宇多天皇とされる。道真を余りにも重用に過ぎた
ばかりに起こした悲劇だといえるかも知れない。そしてそれはまたハジベという一つの血脈の頂点だったと言えるだろう。
血が一族血統の正統を説いた後、血という概念が主導権を握り、それ故に多くの悲劇は繰り返された。
しかし醍醐帝が晩年の落雷事件は忠平に摂生の位を与える結果をもたらすが、同時に天台宗の座主である増命と組んで道
真を怨 霊に仕立て上げ吹聴する事で、気が弱い時平の息子である保忠や敦忠等をノイローゼにさせて衰弱死させてしまう。
情報戦略の趨 りとも言えるこの事が、後に摂関家の正統を時平から忠平へと変えていく。謀略で道真を貶めた時平一門は
怨霊に拠って祟り殺された事になり、一方の同じ藤原一門の兄弟でありながら道真寄りだった忠平一門が、代わって時代を
席巻していく事になる。
考え方一つで因果は巡ることをこうも如実に表した事件も無かったろうし、それはまた十訓抄へと続いたとしても何ら不思
議はない。何時もこうした世代交代は血塗られて闇から闇へと続く。アイデンティティは意図的にすげ替えられる。右馬馬場
にひっそりと在った天満宮はそうして忠平の手によって天下の天満宮へと塗り替えられたのだ。
その深遠なる意図は今も
生きている。
ハジベの末が見た夢は何だったのだろう、そうしてウダの名を持つ天皇と共に培ったのは何だったのか、過去の苦汁を舐め
尽くしてなお上を目指したモノ達の果ての姿であったのか。ウダの名には鵜飼いのウも胡のウも見える。四国には宇多津と
いう所が在り古くから貿易の要所であった。塩を焼き、海を越え、遠く別な世界からやって来た、しかし何処か世界からは
じき出されたモノどもが遠目に伺いながら高いところを望む様にも見えてくる。鬼はそうして形創られ吹聴され流布されて
来たのだ。その角は天下に棹さす、まさに天突く行為。てんつくてんつく。囃子歌にさえ込められた天(カミ)への羨望と憎悪
は未だこの国中を徘徊し隙あらば狙わんとする物腰で常に見つめ続けているのだ。その血の中に、地の中で、蜘の様に徘
徊しながら智を、血を研ぎ澄ませながら…。
長々とお付き合い下さり心から御礼申し上げます。 みなさまに良い年が巡り来ます事を祈念して。