【鬼】末世に貶められた鬼たち T

 

今回の書き込みの際の、書籍による引用及び転載を快く承諾いただいた次の方々にこの場を借りて心から御礼申し上げる
と共に、心から敬意を表します。

 鬼の日本史著者 沢 史生氏
 能 狂言 道しるべ著者 児玉 信氏
                      (両氏の転載快諾と暖かい言葉に感謝)

 以下参考文献

  鬼の日本史  沢 史生 著 彩流社刊
  能 狂言 道しるべ 児玉 信 著 観世清和監修 主婦と生活社刊 
  タオの神々 真野 隆也 著   新紀元社刊
  よくわかる老荘思想  坂出 祥伸 監修  同文書院 刊
    日本鬼総覧 歴史読本特別増刊  新人物往来社 刊

  −また各々に出典記名とした−

 

鬼はいつの世も奇怪な姿と共に、卑しめられ辱められ地の根へと追いやられた存在として扱われてきました。この章では
鬼の原点を探り鬼の本来の姿に立ち戻る事を主眼に書き進めて行きます。鬼はいつの頃に誕生したのか、鬼は何故鬼と
なったのか、鬼の出典は…現代に残る鬼の姿を通して、遠い過去から今に生息する鬼をあぶり出し、鬼と人とのの接点を
考察していきます。どうぞ最後 まで宜しくお付き合いください。
 


◇ 鬼 - そのいにしえの姿 -
 

日本書紀、欽明天皇の時代、次の様な記述がある。

 佐渡島の北、御名部の碕岸に上陸した粛慎人(みしはせひと)の様子を見て、村人は鬼魅(おに)と恐れた。

ここでの粛慎人とは旧満州地区のツングース系民族や蝦夷の一部族と見られている。その鬼は土地の神の祟りで殆どが
死んだという。鬼と言えど土地の神には歯が立たないのであろう、ここでの鬼は村人と殆ど変わらぬが異様な悪魔的存在
として語られている。またさらに、紀、斉明記に次の記述が在る。

 秋7月の甲牛の朔に天皇、朝倉宮に崩(かむあが)りましぬ。8月の甲子の朔に皇太子、天皇の喪を奉徒りて、還りて磐
瀬宮に至る。是の夕に朝倉山の上に鬼ありて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ。

つまり上記、斉明天皇の頃、百済を助け新羅討伐に向かう天皇一行が九州に着き、前進基地とするために朝倉神社の境
内の木を伐り宮殿にしようとしたが、神が怒り宮殿を壊したり鬼火が現れ、大舎人や侍臣が病気に掛かり、遂には天皇も
崩御してしまう。皇太子が葬儀を営んだ際、朝倉山の頂上に大きな笠を着た鬼が出現し人々は恐れおののいたと言う。

これに依れば鬼は疫人となっている。

鬼という字を分解すると、上半分の`田というのは魔物や物の怪、怪獣の相を表し下半分の儿は人間を表しているので、人
間の変形、もしくは変化したものを表していると見える。またムの部分は私であり陰を表現している。

中国の「正子通」には次の記述が見える。

 〜人は死して魂魄となる。魂魄は鬼であり、陰陽の気を具え形を成す。陰陽散じて人は死し、はじめ死して前陰己(すで)
に絶え、後陰末だ来たらず、これを中陰と言う。通じてこれを鬼という。〜

これは仏教に関わる文脈で語られており、鬼の概念が仏教にある事を物語る。

その通りに日本で鬼という言葉が語られ始めるのが、上記の欽明、斉明を始めとする日本古来のアミニズムを排斥し、仏
教国へと変貌を始めた時期と一致するのは決して偶然では無いだろう。

能に見る鬼。 (転載)

−−− 鵜飼 −−−

野生の鵜を飼い慣らして綱で操り鮎などの魚を捕るのが鵜飼いです。古代の朝廷には鵜飼部という専門職が在り獲物は
朝廷に捧げられました。鵜飼部は世襲で、現在の長良川等の鵜飼の鵜匠達は、宮内庁所属の国家公務員として扱われ
ています。まさに鵜飼部の流れを汲むと言っても過言ではありません。朝廷の為の漁区を御厨(みくりや)と呼び、一際厳
しい管理下で統括されていました。「能」の鵜飼もそうした禁漁区で起こった物語です。

安房清澄寺から甲斐の身延山久遠寺へ向かう日蓮宗の僧が、石和川のほとりに野宿をした夜に、松明を振り立てて現れた
老漁夫が、その昔、密漁をして仲間に捕らえられ、簀巻きのまま川に沈められた亡者だと名乗ります。やがて亡者は若く活
きの良い鵜を川面に放ち魚を追う様を見せ、面白い、と興じている内に冥土に戻る様に闇に溶け入ります。僧が亡者を弔う
と、そこに地獄の鬼が現れ、鵜飼の亡者は、生前旅の僧をもてなした善行の功徳で罪業を逃れ、鵜船を極楽への渡し船に
して成仏した、と語り、法華経のありがたさを讃えて地獄へと帰ります。
                                                                                    この項 −能 狂言 道しるべ 児玉 信− より転載

−−−葵上−−−

源氏物語の六条御息所は葵上に嫉妬した。源氏の正妻である葵上を病の床に就かせる悋気妄想のオニと化す。案じた朱
雀院の臣下が、巫女に命じて梓弓の口寄せの法を行わせると、弦音に誘われて貴婦人が登場する。さめざめと涙を流す女
性に尋ねれば、六条御息所の怨霊なり、と答える。そして源氏の変心に恨み辛みを述べるのだ。さらに葵上の病状は悪化
し、怨霊は般若へと変貌する。

−−−−−−−−

これら能における鬼とは、元は人であったモノが変容している点は見逃せない。鬼はこの世とあの世を行き来する内に鬼と
なるのか、そもそも能の世界を即ち幽玄の世界と言う。能舞台にしつらえた「橋」は二つの世界を繋ぐ役割を表し、橋を行き
来するモノは既に人間にして人間では無い。しかして単純に死の世界があの世であると言い切れるのか?。

現代の感覚で言うならば、「人」と書かれたものは「一般市民であり社会人」と同義であると見なす事は極普通の感覚であ
る。人が産まれるとしかるべき届けをし、国籍を与えられ、国民となる。しかし過去においてもそうだったのか、上記、日本書
紀の欽明・斉明の時代における「人」とは、天上人の事を指し、民とは天上人に追随する下層民の事であった。ではそれ以
外の、例えば流民や反乱分子は一体どう呼ばれたか。

天上人の住まわる世界を「この世」とし、それ以外の、言い換えれば「統一国家」に仇成す人々を一括して「あの世」の住
人と見立てていた事は、今や疑うべくもない。

ここに鬼と呼ばれる素因が在った事を認めざるを得ない。

つまり「国家の認める人間」を陽の人とみなし、「国家の認めない人間」を陰とし、陰の人を鬼と定義したと言える。

つまり天上人であれ、それが国家に対し不穏分子であると認識されたり、仇成す存在であると認められた時、人は人から鬼
へと変貌を遂げる。葵上はそれを顕著に表している。

だからこそ、陽の元で住まう人々、いつかそれを「陽の下」「ひのもと」「日本」と呼ぶに至るのだ。

 

第2項
 
◇ 鬼 - こだわりの終わりに -

中陰とは中有とも言う。人の死後49日目を節として満中陰とも言う。香典を送った相手からこの字を表に書いた品物を頂
くこともあると思うので、割にポピュラーな言葉ではないかと思う。人は死して魂魄となると前回書いたが、魂魄という文
字には確かに鬼の字が当ててあり、魂魄の事を鬼だと言うのは説得力がある。

しかし、死者が何故にこの世に戻ってくるのか?。或いは生きながらに鬼と化すのか、その文脈に明快な答えは出ていない。
しかし、能に見る鬼には一つの共通点が見える。それが「こだわり」だ。

「にくし」であれ「いとし」であれ、「うらみつらみ」であれ、そこには鬼となった人の「究極の願望」が見事に結集して
「目的」を果たす、という一つの目標達成の「変身願望」が見える。つまり、鬼とは「なろうと思えばなれる」訳で、その
為には何らかの手順を踏めば可能なのだ、という事が解る。

では、どうすれば良いのか、一つにはお百度参りが参考になると思われる。良く神社の境内で人に見つからないようにしな
がら参道を百度往復すれば満願に願いは叶う、というもので、同じように丑の刻参りというのものもある。その丑の刻参り
の装束を纏めてみる。白装束に裸足、手には木槌と五寸釘、そして頭には鉄輪(かなわ)にろうそくをくくりつけ火を灯す。
手には藁人形が握られ、人形の胴には相手の髪の毛等が添えてある。そして丑の刻、密かにご神木に向かって釘を打ち
付ける。満願を迎えるまでに誰かに見られたら、即刻相手を殺さねばならない。

この様子に良く似た記述が平家物語にある。

要約すれば次の様になる。つまり、長い髪を5つに巻き、松ヤニで固めて角の様に立たせ、顔にはベンガラを付け身体には
丹を塗る。頭には鉄輪を被り、各々の足(3本)に松明を結びつけ火を付ける。夜に宇治川に行き水に浸かること37日間。
すると遂には鬼となる。

                                                                                                                              参考文献 平家物語 剣の巻 

これは有名な宇治の橋姫の記述だが、この内容と丑の刻参りとは非常に内容が似ている。橋姫伝説の鬼は手順を踏むこ
とで鬼に変化した。その事に習い、人は「何らかの手順を踏めば」鬼になれる、としたのだ。鬼の「特異なパワー」を手に入れ
る事で自己の願いを叶えようと欲したのだ。が、その願いとは、邪悪で著しい煩悩と欲望、そして執拗なまでのわだかまり
と驕慢が内在していた。

道成寺、安珍清姫に見られる様な、男を追う女が次第に大蛇(おろち)に変化していく、そのあたりにも共通するものが見
えるようだ。ちなみに橋姫には複数の説話が残っている。

しかし、何故に橋姫と呼ばれたのか、それは橋を境にしてこちらとあちらと隔たりが在ったという事になる。宮中(天上人)
の人々の認識が往々に庶民に浸透する事はあり得る事で、あの世この世の概念はそうして人々の間にも広まったと言える。
しかし、彼女は何故に境に出かける事にしたのだろう。それは自分の生活圏内での行いは生活圏内での法規(おきて)に属
することを十分知っており、そこからはみ出した行為、或いは考え方というのは、属圏から離れる事を要求されたからに違
いない。

辻、或いは橋というのは、まさにあの世とこの世の境目に位置し、境で行う事は掟から離れ、独自な行為を許された場であ
った事が伺える。そこには現在でも「地蔵」「虫送りの石碑」「道祖神」等が置かれているのをしばしば見受ける事が出来
る。

能に見る鬼。 (転載)

−−−紅葉狩り−−−

春の桜、秋の紅葉。折々に色づく景色を求めて、私たちは山野に繰り出します。山路に照り映える紅葉をたずねる…これが
紅葉狩りで、名所は沢山ありますが「紅葉狩り」の舞台は信州戸隠山。風雅な美しさと不気味さが同居しています。

時雨が降ればすぐにも落葉してしまいそうな、秋たけなわの山道を、どこの誰とも知れない貴婦人たちが急ぎ、やがて一カ
所に幕を張って酒宴を始めます。その横を、鹿を追う平維茂(たいらのこれもち)主従が通りかかります。どうして貴婦人
がこんな山奥でと思いつつも、酒宴の邪魔をしては、と馬を降り、そっと場を遠ざかる維持。すると幕の内から声がかかり、
ひときわ美しい貴婦人(名乗らないが高位の息女更科姫という)が現れて、維持の袖を引き留め酒宴に誘います。色香につ
い迷って酒宴に加わった維持を、酒と舞でもてなす貴婦人達。いつしか維持が眠りに入ると、その様子を見た貴婦人達は本
性をほのめかし、目を覚ますなと言い残して、すざまじい夜嵐とともにかき消えます。維持の夢の中に石清水八幡宮の末社
神が、使者となって現れ、貴婦人達は戸隠山の鬼女だと告げて神剣を授けます。目を覚ました維持が身構えて待つうち、身
の丈は一丈(3m)余り、角がはえ、目は日月のようにランランと光らせた鬼女が現れ、虚空に炎を降らせて激しく襲いか
かります。
                                                                     この項 −能 狂言 道しるべ 児玉 信− より転載
−−−−−−−−

ここに描かれた鬼は「戸隠山」に住むという点に留意したい。戸隠と言えば、いわゆる山岳仏教の盛んな地であり、修験道
を生業にする者が多く住む場でもある。著名な場所として、岩木山、出羽三山、日光二荒山、筑波山、立山、白山、石鎚山、
英彦山等がある。戸隠山の由来は天照大神が神隠れした天の岩戸を押し開いた天手力雄命(アメノタヂカラオノミコト)が、力任せ
に岩戸を投げ飛ばした時一部が飛んできたというらしいが、その最盛期には戸隠十三谷三千坊と言われる位に栄えたそう
だ。隣には紅葉狩りの伝説にちなんだ鬼無里(きなさ)の村があり古くから鬼伝説の里といわれている。

修験道とは具体的に質素な食事をとりつつ山野を横行して修行する、いわゆる山伏を指す。全国の通行手形のフリーパス
の様なモノを与えられ、全国を巡った(政治的に利用された事も多い)。山岳仏教の一つに弥勒信仰があり、行者がミイラ
になる事も在った。出羽三山にはそうしたミイラがある。仏僧が何故にミイラになろうとするかと言えば、即身成仏を願うか
らで、飢饉や天災が続く時などはまたそうした事も良く起こったと言う。山伏の姿と言えば、白装束に結袈裟と、頭に乗せ
た角張った班蓋だ。いわゆる山伏12装束と言われている。この頭にある角のある形を、仮に言い換えれば角に見えなくも
ない。もし、行者が神通力を使うなら、そしてそこに強大なパワーが在るなら、角はまたそうしたシンボライズの役割を持
っていた、と言えるかも知れない。まして、頭の丁度額の上、それも第三の目と言われる天目に沿ってあるのは出来過ぎで
はないか。(霊的な事ごとに天目は重要な役割を果たす事は良く知られている)

ちょっと横道に反れるが、そうしたミイラになるためには一つの手順がある。仏僧はまず食事内容を少しずつ制約していく。
嗜好品を絶ち、肉食を絶ち、そして最後には五穀を絶つ。五穀は米、麦、粟、稗、黍の五種で、これらを絶つと「木食行を
経、断食行をする」事になっていく。しかし、言葉で書けば簡単そうではあるが、実際に行うと大変な苦痛を伴う。仏僧と
は言え、生身の人間なのだから、その苦しみといえば壮絶きわまり無い。もし、骨と皮になった仏僧が苦しみに耐えかねて
ひょっこり人里に出てきたら、と想像してみる。

里の人間はきっと鬼が山から下りて来た、と思うだろう。そして、異様に目をぎらつかせながら、食べ物を欲し、或いは人
を殺めて食べるやも知れぬ。

雨月物語 仏法僧の段には、僧の身でありながら稚児を溺愛し、鬼畜となった鬼僧が里に下りて人肉を求めると描かれてい
る。単に物語りで済ますには余りにも現実味を帯びた描写であると言える。

さて、仏僧が希求した五穀絶ちだが、そのルーツを紐解きたい。中国の仏教が輸入されて興ったと言うのは自明な事ではあ
るが、もう少し深い部分に大事な事が隠され居るようだ。

そもそも五穀を絶つという行為は何の為だったのか、それを解き明かしたい。
 

第3項
 
◇ 鬼 - 豆と五穀と丸かじり -

中国には老荘思想という精神文化の基幹を成す様な思想が今も根強く生きている。文化大革命の後、宗教は消えたと言わ
れながらも、未だ各地の廟には参拝する人が後を絶たない。まさにタオイズムは道教とも仏教とも結びつき、中国の人々の
血とも肉ともなった存在として健在なのだろう。この老荘思想の一つに健康体になれる方法というのが幾つか紹介されてい
る。かの秦の始皇帝が求めた「不老不死」の仙薬に通じるものだ。中国の人々は健康で長生きをし、ついには神仙となる事
を求めていた。その一つに神仙思想、長生きの方法というのがある。

中心となるのは食事と運動、それから性生活。

食事というのは具体的に精進料理の様な食生活を実践する事で、特に山に自生するキノコや木の実などを中心に採って、
五穀を絶つのが主体とされた。何故に五穀を絶つのか、という理由は、次の通り。人の体内には三尸虫という虫が居り、こ
れが決まった時に天の天帝に報告に行き、その体内の主(人間)の行状を伝える。良いことなら別に構わないが、悪事を伝
えればその悪行分だけ寿命を縮められてしまう。つまり天帝は人の寿命を決定する神と言える。そこで、人は三尸虫を天帝
に行かせない様にする等の方法を考え、三尸虫の弱点をつく。つまり、三尸虫は五穀が栄養源だったのだ。こうして人は五
穀を絶ち僻穀(へきこく)状態となる事で神仙(長寿強いては不老不死)となる事を希望した。

この思想は日本に輸入されたのだろうか。中国では始め老荘思想が、それから道教が、最後に仏教にと変遷していく。しか
し老荘思想はその中で延々と生き続けた。故に道教の中にも仏教の中にも、そうした思想の片鱗が内在し、そのエッセンス
を含んだまま日本へと輸入されるに至る。人が即身成仏をする為にミイラとなる時、食事を制限する行為の根本には、まさ
に老荘思想が内在していたに違いない。しかし、三尸虫という概念までは、同時輸入されたか、それは明確では無い。しか
し僻穀を行う行為が、そのまま神に或いは仏に近ずく方法であり、即身仏であり、生きながらに生まれ変わりを果たす事の
出来る手法だったと理解していた筈だ。

ただ、ここで面白い事に五穀絶ちの僧が食べても良い食材が他にも在るという事に気づく。それは畑の肉とも言われる豆類。
大豆、小豆、枝豆、等これら豆は五穀とは関係なく仏僧が食べても良いとされる食物だった。まさに豆は五穀絶ちをした仏
僧が食べることの出来る重要な食料だったと言える。江戸の頃、沢庵和尚が漬け物をもたらしたと言われる様に、法連僧が
仏僧に良く栽培されたと伝承されるように、豆禅師と言われる故事がまた今昔物語に残っている様に、仏僧は食材を輸入す
る代表者でもあった。今の様な検疫も無論当時無かった…。日本という島の国に豊かな食材をもたらした者、それもまた往
時の移民や仏僧達だったと言える。

さて、仏教はそもそも鎮護国家の為の手法として輸入されたという事を思い出して頂きたい。それはまさに中央集権の為に
あるのであって、民衆の為に在った訳では無いという事を念頭に置く事がまずは必要になる。その上で、仮に、民衆にとっ
ては有用な仏教でも中央集権にとっては不要だと認識されれば、いかな高名な仏僧であっても、また民衆の救済という大義
名分を掲げた乞食坊主ならなおさら、糾弾の対象となった事は想像に難くない。と、すれば、それらの仏僧が「鬼」と形容
される事はあり得る事と言える。

一遍聖絵(もしくは上人絵巻)と天狗草紙の二つを見比べてみれば、そこに、滑稽とも言える二者間(天上人と異界人)に
置ける意識の違いというものをまざまざと見せつけられる。片方では最高位の仏僧として、また一方では天狗に零落させら
れた坊主として。

そうしてみれば、邪気を払い追難(ついな)の儀式とされる「豆まき」も、その中にルーツを見ることが出来るだろう。

こうしてみると、今まで書いてきた鬼というものも一つの組分けが出来る。
 

 1、死者の魂や霊魂、或いは精霊と思われるもの (これは古い時代に多い)

 2、仏教画に見られるような邪鬼、或いは羅刹や四天王の足下にいるもの

 3、山岳信仰に根ざした山伏等が天狗などに変化したもの
 
 4、人が盗賊や凶悪な人間から変化したもの(法を犯した者と同義とする)

 5、怨恨や憤怒から人が変化したもの

 6、外国人がその風貌から異界の住人と見られて勘違いされたもの、或いは
   よそ者。流浪者。

中国から日本に入った鬼は仏教画における鬼であって、それまでの「陰に隠れ見えない存在だった不思議なもの」は習合合
体視覚化される事で異様なまでに現実味を帯びて語られる事になる。それまでの不明瞭だった鬼のイメージは大きく変わり、
現実視される事になる。つまり、仏教が入る以前においては鬼はオニ(陰、穏)、また時にカミであり不可思議な存在だったの
だ。

鬼とは国家の安定を脅かし、政府を侵犯する異界の存在と言える。鬼が様々に変わっているのは政府の変遷や社会の変貌
に沿って人のアイデンティティも変化するからに違いない。異界と言うのが例えば服従を拒む特定の地域民であれば、鬼の里な
どと形容し、法に従わぬ者には鬼の名を与え、人里離れた深い山の中に在れば異界への入り口、鬼の巣などと呼んだ。鬼
という言葉で、世間から追い払い、貶め疎い、駆逐した悲惨な歴史が隠れていたことを認識しなければならない。

また鬼は次の様に良く表現される。
つまり片目(一つ目)一本足、裸足に下駄等これらの様子を表したもの…。

さて出雲国風土記には次の様な記述がある。

〜昔ある人が山田を守って細々と暮らしていた。ある日突然、山から一つ目の鬼が出てきて、田で働いていた男を食べてし
まった。男の両親が驚いて竹やぶに隠れていると、笹の葉が「動げり」(あよげり:揺れ動く)。その時、食われていた男
も「動、動」(あよ あよ)と言った。それからこの辺りの事を「阿欲」(あよ)と呼ぶようになった。という。〜
                                                                                               −鬼の日本史 沢 史生 より 抜粋−

山から下りた鬼は一つ目だったという。或いは別の記述には一本足だったともある。これらに共通するのは、山の中で何か
が行われ、そして目と足を失った人である可能性は高い。

出雲地方は言うまでも無く「産鉄民」の多く住む場所であり、そこには産鉄業を生業とする者が多く居た。産鉄民達は人里
離れた山奥で炉を作り、鉄(かね)を吹いていたのだ。番子と呼ばれるふいごを踏む人足は三日三晩休むことも許されず、
延々と足でふいごを踏み続けたのだ。炉から燃え上がる炎に混じり、真っ赤に燃えた鉄の粉が舞い上がり辺りに飛び散る。
それは人足の目を足を、使いものにならない程に痛めつける。結果として目を潰し、足を痛めつけられ食事も思うようにと
れない者が里に降りては食べ物を漁っていたのだ。その身体は鉄を燃す炉の火に当てられ、真っ赤に、或いは赤黒く腫れあ
がり、腕も足も労働で鍛えられて筋肉質で厳つい。里の人にとって突如として現れた産鉄民の容貌はまさに異形の何もので
もなかったろう。

紀・記が示すように産鉄民は中央集権に取り込まれていく運命を持っていた。武器調達の為に必要不可欠な技術を持ってい
たからに違いない。しかし、その多くは朝鮮半島等海外から来た者達で、国家の事など興味は無かったに違いない。それが
悲劇を生む事になる。

鬼がオニだった頃、仏教に依って鬼が視覚化される以前、オニは一体どう語られていたのか?。そこには中央集権から執拗
に駆逐された人々の、闇の歴史が在った。
 

第4項
 
◇ 鬼 - 鬼に金棒 -

車で道を走っていると、時折道ばたに「交通安全」の看板に出くわす事がある。時にそれは「鬼に金棒」の絵柄であったり
する。鬼にとって金棒はまさに重要な武器なのだと誰もが知っている。しかし、それだけなのだろうか。

民話伝承に見る鬼。  (転載)

−−−「鬼に横道無し」沢 史生−−−

大江山の酒呑童子は「鬼に横道(よこしまな行い)なし」と言い切り、葛城山の土蜘蛛は、誅殺されるいまわの際に「君が
代の栄えに、一矢報いようとするわれらの志に、頼光よ、なぜにかくも邪魔立てするのか」と悲痛になじっている。ちなみ
にオニ退治で高名な多田源氏の頭領・頼光は、オヤジの満中ともども、武人としてよりも、莫大な賄賂を時の藤原摂関家に
贈り、巧みに出世を遂げた史実のほうが有名だ。(中略)伝承に探ってもわかることだが、人間がオニを欺す例はあっても、
オニが人間を欺したためしはない。

−−−−−−−−

ここに書かれているように、民話に見られるオニに、一つでも邪な計ごとで相手を窮し、手管を尽くして勝利した例が在っ
ただろうか、人間が欺瞞に満ちた策略を謀してオニを退治した例は限りなく在るものの、オニはいつも素直で、実直で、嫌
みや二面性を嫌い、計り事を退け、常に潔く、まるでバカ正直ともとれる正面からの一本突破でいつも挑んでいる。それは、
良く良くおもんぱかれば、つい昨日まで存在していた武士の精神である、とか、武士道と呼ばれたその志に非常に近いもの
がある事に気づく。女の姿に身を窶して誘うことはあれど、正体を露わに襲いかかるオニに許しを請う振りをしてだました
人間は居るが、窮したオニが反対に人間にへつらい許しを請う振りで騙し、欺いた例があったろうか。

言い換えればオニとはそうした二心(ふたごころ)を嫌がったからこそ、時の中央集権に於ける天上人にへつらい、おもね
り、追随を否定したのだと言える。

しかし、天上人はそれを許さなかった。何故に許さないのか、そこにはオニ達が技術集団であり、プロでありエキスパート
故に持つプライドと、対する中央集権がその国家を維持する為に必要不可欠な、武力労役技術確保と維持という命題の、
その二者間の壮絶な攻防があったからに違いない。

(転載)

−−−鬼の日本史−−−

万葉集第七−一三七六に「大和の宇陀の真赤土(まはに)のさ丹(に)つかば、そこもか人の吾(あ)を言(こと)なさむ」
の一首が見られる。「宇陀の赤いネバ土が着物についていると知れたら、その事で人は、わたしの事をとやかく噂するであ
ろうか」という意味だ。詠者は宇陀の人と深い関係になった。その事が噂に立つのを非常に恐れているのである。(中略)
大和における宇陀の地が、世の人から疎外されていたらしいことだ。(中略)

それはさて措き、埴を赤土(はに)、土(はに)と読ませながら土師(はにし)が約まって「ハジ」になったとする解釈は、
どうも肝腎な部分の説明が、省略されているようで気に入らない。王権が野見宿禰に、土師臣(はじのおみ)の公姓を呉れ
てやった魂胆には、いわゆる異名以上にひどい名を付けた底意地の悪さが見え見えだからである。

                                                                                                                            沢 史生
−−−−−−−−

ここに記載されているのは、宇陀と呼ばれる地域の人々は大和にとって忌みの場であり、そうした場で情事を行う行為が公
になると困るという点に重点を置いて書かれてある。当時情事は日常であって、別に何処で誰と情を交わしたからと言って
大問題にされる程のものではないと認識する必要がある。しかしそれでもなお宇陀という地名にはこだわりを持っている。
ところで宇陀というのは大和、つまり奈良より南に下った三輪地方から差ほど遠くない山間の地域を指す。現在では道路の
整備も整い、道の駅宇陀という名所も在る観光地となっている。

この地域では古くから「焼き物製造集団」が在った、と万葉集に在る所をみれば、野見宿禰がそういった人々と強い結びつ
きが在った、と見るのが自然であろう。では、そもそも野見宿禰なる人物が日本書紀で英雄の様に語られるにはどういった
経緯故であったろうか。

(転載)

−−−鬼の日本史−−−

日本書紀垂仁天皇七年の条
七年の秋七月に、左右(もとこひと=舎人)奏して申さく「当麻邑に勇み悍(こわ)き士(ひと)有り。当麻蹶速(たぎまのけは
や)という。その為人(ひととなり)、力強くして能(よ)く角(つの)を毀(か)き鉤(かぎ)を申(伸=の)ぶ。
つねに衆(ひと)中に語りて曰く「四方に求めんに、あにわが力に並ぶ者有らんや、いかにして強力者に遇(あ)いて、死生
を期(い)わずして、ひたぶるに力競べせん」という」と曰(まう)す。(中略)即日に、倭直の祖(やまとのあたいのおや)長尾
市(ながおち)を遣わして野見宿禰を喚す(めす)。ここに野見宿禰、出雲より至れり。すなわち当麻蹶速と野見宿禰と相撲
取らしむ。二人相向いて立つ。おのおの足を挙げて相蹶む(ふむ)。すなわち当麻蹶速が肋骨を蹶み折く(さく)。また、そ
の腰を踏み折きて殺しつ。故(かれ=そこで)当麻蹶速の地を奪りて悉くに野見宿禰に賜う。これ、その邑に腰折田ある縁
なり。野見宿禰はすなわち留まり、仕えまつる。

書記が述べる相撲の顛末は以上である。

相撲(相打つ意)の原義は「素舞い」であった。(中略)ちなみにこの相撲始祖の条は「古事記」には記されていない。

                                                                                                                            沢 史生
−−−−−−−−

この記述に見る限り、実に生臭く、現代の相撲が国技であって、清廉潔白、武道ともひけを取らない格技の一分野を確立し
た今日の様相とは、余りにもかけ離れた惨たらしい内容が、しかも赤裸々に記されている。そして、それはまた、当麻にと
っても野見にとっても、その置かれた境遇は近いものがあり、どちらが負けても勝っても、似たような末路を辿っただろう
事は容易に想像出来る。

となれば、野見宿禰が埴輪を創作し、土人形を殉死に替えた行為には何があったのだろう。

当時、生き埋めにされた人々はどういった末路であったろうか、まさに泣き叫び、生を懇願し、うめき苦しみ、遂には死を
迎え、その身体は腐り爛れ、犬やカラスにつつかれ食いちぎられ、無惨な体を晒した事だろう。その姿を目の当たりに、動
揺を隠せない人々…、まさに、それが当麻の一族の末裔の姿であり、一歩間違えば明日の野見の一族なのだと、それは
十二分に承知していた筈である。敗者として埋められたのは、他でもない、有用な血筋を持った天皇家一族や側近等であ
ろう筈も無く、当時「刃向かい」「仇なした」天皇への反乱分子であり、見せしめであり、大衆に対すプロパガンダの一つとし
て行われた殉死であったからこそ、野見宿禰は殉死を恐れ他人事にする事が出来なかったのではないだろうか。

しかし、野見宿禰にしろ、当麻蹶速という名にしろ、妙に作為的な名前ではある。無名に近い反乱分子から輩出された頭領
であるなら、その名もまた、虐げに近い、貶める意味を込めた名としてあるのが想像できる。しかし、何故にノミと言われ
たのか、それは、まさにノミを扱う製鉄精錬技術集団の頭領だったからに違いない。

…天皇は言った。ノミ職人の某よ、この天皇(わし)に楯突く、蹴りの力が一番上手いと言われる、お前の隣にいる当麻邑
の某と戦い、ワシの目の前で勝ったら、そいつの領土をお前にくれてやろう。その上、お前達が天皇(わし)に対し忠誠を
誓うことを信じてやろう。どうだ。…これが実際の当麻対野見のいきさつではなかったか。

そして、野見宿禰は土師部と呼ばれるに至る。なぜわざわざ土師(はにし)と呼ばずハジベと呼んだのか、まさにそこにも
「恥」に近い虐げる意味を込めている様に思えてならない。元々産鉄民だった野見一族は無理矢理土職人にされてしまう。
言い換えれば、鉄を造り、武器を造る事はつまり、朝廷に謀反を起こす事と同意に取られ、仕方なく与えられた「土こね屋」
の職人として生きる事を甘んじて受ける事で、将来の希望に替えたのだと言えるだろう。元々技術集団として生きてきた彼
らに土でヤキモノを造るというのは容易い事であったろう事は想像に難くない。

一族が生き残るために必死であっただろう野見宿禰。そして、その命を受けて埴輪を作り、無惨な遺体を作らない様にする
為に奔走しただろう事。朝廷という怪物に飲み込まれなおその中で必死で生きていこうとした一族の声が、まさに聞こえて
くるようだ。宇陀の人々が忌みの世界の住人である、というのは、そうした場に生きる人々が朝廷に対しての反乱分子を内
在させる一族であったと言わざるを得ないだろう。野見と共に土師として生きようとした人々、それが、しかし、朝廷の内部で
は重要な呪の一端を担うヤキモノを造る、という事は、また、朝廷自身も何処かで非常な恐れを抱いていたからに違いない。
呪が自らに降りかからぬ様に、用意周到に練られる計画、その末端に位置する人々。現在、多くの土師モノが壊され重ねら
れて柱の基礎から出土する例が、それを如実に表している。敗者をして再び復活戦とならぬよう細心の注意を払って反乱分
子を徹底的に排除し貶める事で自らの地位を不動のものとする、その朝廷のしたたかさと、権力に恐れをなして逆らわぬ様
にした意図の深さ。

朝廷の命に追随する者だけが生き残れた世界、その世界を元に造られただろう記・紀。故に産鉄植民の多くは朝廷に取り込
まれ、そして技術は全て朝廷の管理下に置かれ、直轄されていく。幾らオニたちがその鉄の棒で息巻いても、その力は圧倒
的な大差に敗北を期す事になる。

それでも最後まで抗戦を続ける一派が「土蜘蛛」「蝦夷」「河童」「オニ」と呼ばれる集団として、今に名を残しているの
であろう。

しかしなお、朝廷の命令にいつも追随するばかりでは人々も苦しかった筈であり、そうした反乱分子を物語に登場させる事
で、己の胸の内をいつか晴らしてくれるヒーロー像としてのオニへと、次第に変化していく事になる。

そこに描かれたオニは常に清く、潔く、対する退治する者は謀略に満ち、阿漕な策略と共に朝廷という化け物の替え玉とし
て登場するのだ。が、結局いつもオニは闇へと追いやられ、退治者はヒーローとして締めくくる事になる。そしてそれだけ
が物語でありながらも朝廷からお目こぼしに預かり現在までも生き残ってきた証となるのだ。今に残るオニ物語が、かつて
米軍(GHQ)の管理下で発禁処分となった文物と同じ扱いの上に遺されてきたものと同じレベルのものだ、と気づく人は
…誰もいない。

オニは決して物語の中だけで蠢く存在ではない、明日は自分自身の内部から、蘇り、甦り、その目の中に宿り、天下に仇な
し、反乱を起こす、そうした存在に変身する一個のオニとなるに違いない。

しかし、蝦夷が「忌み衆」となるその原因は一体何処にあったのであろうか。「仏教擁護派」と言う隠れ蓑に隠された、と
てつもない策略に填った物部一族の悲壮な過去がそこに在った。
 

第5項
 
◇ 鬼 - オニの角は不老不死? -

午頭天皇は祇園精舎の守護神と言われるが、八坂神社で神仏習合した後に病気や厄災からの守護を願って行われた御霊
会で世間に広く知られる様になる。午頭天皇は牛の角を生やした神様で、蘇民将来説話の中でそうした厄災を払う記述を備
後国風土記に見ることが出来る。伝説にもオニの角を食べて病気が全快した例もあり、そうした特異な力が角には在る、と
信じられていた節がある。

地獄絵図に登場する鬼にしろ、午頭天皇の霊力にしろ、特異な力がその角に秘められていると考えれば、丑の刻参りで女が
特異な力を希求すべく三本脚の鉄輪を被るのも頷けるだろう。

人は時として未知なもの特異なものにはイメージを抱ききれず混交させていたと言えるのかも知れない。しかし遙か何千年
も昔のエジプトで女神「ハトホル」の冠に太陽と牛の角がモチーフとしてあるのには驚きを隠せない。角という存在は現在
の我々が知る由も無い深い心理が隠されているのかも知れない。

しかしそもそも特異な力はまた、意図して隔離しようと画策した集団が在ったという事もまた認識せねばならない。

日本書紀は欽明天皇の時代、流入する仏教に対し、受け入れるか拒否するか、建議に掛ける前に有力豪族に意見を聞く事に
した。天皇自身は仏教を養護していたが、蘇我稲目は賛成派、そして物部尾興と中臣鎌子は反対派となった。そこで天皇は
取りあえず蘇我稲目だけに仏像を奉らせる事にしたと言うのだが…。

蘇我氏は言い換えれば葛城系譜の一族である。対するのが反葛城系(一説に依れば小姉君系王族)であるが、欽明天皇の時
代に、王位継承権が実力本位から「王家摘系相続」に変わる。つまり母の尊卑によって決定される事になる訳で、それが反目
の理由となって天皇継承権を得る可能性が低くなった穴穂部皇子始め小姉君系の人々が、物部氏を押して廃仏派を進めた理
由では、と推察される説もある。物部氏は周知の通り石上神社の奉仕者と言える。

蘇我氏には渡来系の東漢氏、秦氏等の豪族が中心となり、一方の廃仏派の物部氏には中臣氏、大三輪氏等の伝統重視派
がついた。しかし、敏達天皇の大后で在った炊屋姫(かしきやひめ、欽明天皇の娘、敏達天皇の妻、後の推古天皇)が天皇
代行についたとき、その権力欲しさに近づいた穴穂部皇子が姫の側近であった大三輪氏に依って阻まれた為、逆恨みをして
大三輪氏を物部氏に殺させてしまう。内部抗争とは言え守屋にとっては自分で自分の首を絞める行為と解っていても穴穂部
皇子を捨てることが出来なかったのだろうと推察できる。そして馬子は先手必勝と当の皇子を暗殺してしまう。

守屋は一人孤立し馬子の圧倒的勝利に依って敗れ去る。こうして仏教は国教とも言える扱いで興隆策を進められる事になる。

しかし省みるに、それまで天皇直属で祭司をも支配してきた物部氏が死ぬとなれば、同時に天皇の権威もまた失墜する危険
が在った。祭司が神道の重要な地位を占める限りは、祭司と同等か、或いはそれ以上の権威を示す必要が在る。かくして仏
教は神道の上位に位置する事で、その権力の増大を計る事になる。そしてそれは渡来系であった豪族達の情報に依って、さ
らなる国家権力の増大へと拍車をかける。

かくして物部一族は仏教画に依る「悪鬼」「忌み衆」「仏の足げに置かれた存在」と同族の命を与えられ、悉く消し去られ
て行くことになった。そして、その意義は「因果応報(どんな者(官位であれ)も行い次第である)」という理念にすげ替
えられたのであった。

この因果応報は聖徳太子の話でも伺い知ることが出来る。曰く、聖徳太子が四天王の像を刻み、戦いに勝てば四天王を祀る
寺を建てます、と祈願をする。するとその通りに蘇我方が勝利を収めたと言うもので、廃仏の物部には滅びの運命が、四天
王信仰をした太子には仏の加護が在った、とする記述に裏付けられると言えよう。

故に、四天王に逆らった物部は、その足に踏みつけられる運命だった、との筋書きが在ったと言わねばならない。仏教を隠
れ蓑に政治政策に使われたのは、或る意味で当然であったと言えるだろう。

しかし、昨日の友は今日の敵、蘇我氏と共に在った中臣もまた、離反へと向いて行く事になる。それがまた新たな忌み衆を
生み出す素地となる。蘇我入鹿暗殺は歴史的事実として知らぬ人もいないだろう大事件だった。蝦夷が辛くも似た発音であ
った故に「忌み衆」となったのが偶然なのか、はたまた当時の権力者に依る作為の果てにこじつけられたのかは定かでは無
い。

しかし、この後、天皇に敵対する者、或いは治外法権の場に住む者に対しての俗称が蝦夷だと表現される様になるのもまた
事実なのだ。

−山陰から東北の日本海沿岸に残る説話−

海岸地方に住む人々は、その海岸に流れ着いた死体を見ると、福の神が来たと喜び丁重に葬ったと言う。その死体を恵比寿、
夷、或いは蛭子と呼び、古くは神道と補陀落海渡との神仏習合が見える。

海岸端に流れ着いた土左衛門を見て「えびす」神が来たと言う心理には、その昔遠い海の向こうからやって来た漂着民、い
わゆる渡来系の人々と関わりが有る様にも推察できる。そうした人々が在住民に対して利益をもたらしたと言う記憶がそう
させると言える可能性が有る。しかし、そのえびす神はまた、天皇にとっては不穏分子である、という点に変わりは無く、
全ての漂着民がそのまま天皇に追随したとは言えないからで、そうしてみると、地域民と天皇系には漂着民に対しての意識
の開きが大きいと認識しなければならない。

こうした仏教擁立に伴い、斉明期に書かれた鬼の話が(第一項)出現するのは決して偶然などでは無いと言えるのではない
か。天皇が新羅討伐に出撃したにも関わらず現地到達までに国内(朝倉山)で崩御する事は一大事なのだ。その理由が絶対
的に必要な事は明白で、実際には天皇に敵対する部民をして鬼と形容し、天皇崩御が天変地異にも匹敵する一大事の上に起
こった出来事としなければならなかったからだと推察できる。敵の一部族に依って安易に殺されただの、出先で病気になっ
ただの、権威の最高点に位置する者にとっては、それは不吉以外の何物でもなく、決して在ってはならない事だったのだ。

この直後の白村江(はくすきのえ)の戦いで百済から多くの王族が難を逃れて日本に亡命を果たしているが、その中に鬼室
一族等の人々(後の天智朝に仕える)が居た事を考えれば、仮に文体からの習合としての鬼=渡来人=謀反人としても、即
同等に見ることは出来ない。あくまでも天皇にとって都合の悪い者たちを総称したものだと認識すべきではないだろうか。

しかし、この朝倉山の一件は在る意味で、対外的にも国内的にも重要な分岐点となると思える。が、この九州の地で、天皇
含め軍の多くが急な病気で倒れたと言うのは、或いは、渡来民が運んだ新しい病原体が蔓延した結果なのかも知れない…、
が、憶測はこれ位にしておくことにしよう。

しかし、天皇一派は仏教をも更には中国の国学のセオリーまでも巻き込み、さらにその力でとんでもない内容の史書を作り
出すことになる。まさにカミもホトケも在ったもんでは無いのだった。


                                     この項の参考文献
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